不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

黒い夏/ジャック・ケッチャム

黒い夏 (扶桑社ミステリー)

黒い夏 (扶桑社ミステリー)

 北村薫藤原伊織伊坂幸太郎奥田英朗ほしおさなえ米澤穂信。ここしばらく、私はこれらの作家を読んでいた。いずれも素晴らしい作家であると思う。心温まったり微笑ましかったり泣けたりする物語。魅力的な登場人物。そして最後は落ち着くべきところに落ち着く。いいなあいいなあこういう世界。
 だが闇が足りない。倦怠、欲望、不満、憤怒、暴力、不安、焦燥、混乱、惑乱、絶望、憎悪、混沌、崩壊、破綻、破滅、弛緩、そして虚無。真に世界を構成するこれらの何もかもが足りない。足りねーんだよ!
 というわけでジャック・ケッチャムである。新作『黒い夏』において、ケッチャムは以上の全てをじっくり描き出す。話の3/4近くを占める第一部を丸ごと使って、作者は、プロローグで若い女性二人を射殺したレイを中心に、その場に居合わせたレイのガールフレンドと友人、彼を追う警官、レイに目を付けられる女性などの、ほとんどの場合歪み爛れている人間描写を、静かに、的確に、そして丹念におこなう。その中に、あろうことか健気な少女や可愛い猫を交ぜ、彼女らは一体どうなってしまうのかという読者のストレスと不安を煽るのである。殺戮は今回、それほど残虐ではない。しかし代わりに、《来る、来るぞ、でかいのが》というイヤぁな緊張感を、少なく見ても300ページ持続させている。しかも筆致が深刻で重々しく、B級臭は皆無なのだ。そして怒涛のクライマックス。まさにケッチャムの独壇場であり、最高傑作『隣の家の少女』ほど如実ではなくとも、この作家の正体を示す好事例といえよう。
 なお先述のように、今回の具体的犯行内容はそれほどキツくないので、ケッチャム初めてという人にもお薦め……できるのかなぁ。というか、何をどうやったら人はケッチャムに行き着くのか。自分のことはもう思い出せない……。