不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ささらさや/加納朋子

ささらさや (幻冬舎文庫)

ささらさや (幻冬舎文庫)

 《小説で泣く》ということが理解できない。もちろん私も、小説を読んでいるときに泣いたことはあるのだが、それは小説の内容に直接泣いたのではなく、小説の内容が私のプライベートにシンクロして、精神状態を揺さぶられたからに他ならない。つまり、泣き上戸が酒を飲んで泣くのと現象としては同じである。
 この『ささらさや』も泣ける小説らしいが、自らが愛する者に愛される者たちが、死によって永遠の別れを迎える物語に、私のプライベートを想起させる要素など皆無である。確かに永遠の別れは哀しいことだが、死ぬときに永遠の別れを告げるべき相手さえいないこと、即ち孤独な生を生きた挙句、孤独な死を死ぬことに比べ、それが一体何程の悲惨さを呈するというのか。しかも、死別なので、愛はそのまま美しい記憶へと昇華される。愛そのものは壊れない。汚れない。穢されない。負の感情に呑まれて消えることもない。記憶の美化を差し引いても、そこには単に別れがあるだけだ。個人的な感情もて言えば、このような登場人物たちの状況は、それでもなお幸福以外の何物でもあり得ず、その生き様・死に様は、私にストレスと焦燥感しか与えない。彼らのよう者たちに流す涙など、私は持ち合わせない。妬み嫉み僻み。何とでも言うがよい。しかし私は共振できない。感動できない。だから泣けない。これは厳然とした事実である。そもそも、《感動》《泣く》ということが個人にのみ帰属するもの以外の何だというのか。小説を読んで泣いたり感動したりすること。それは、読者の精神の在り処を明確に指し示すものに他ならないと、私は考えるのである。

 『ささらさや』そのものは、いつもの加納朋子。小説の頭から尻尾の先まで感傷的な性善説で埋め尽くされている。幽霊を持ち出して、永遠の別れの哀しみを強く打ち出すのもその一環。それが私に苛立ちしか与えないことは先に述べたが、それを抜きにしても、せめて一たらしの強固な悪意あるいは狂気があれば、と思ったりする。「待っている女」における安易な奇跡も玉に傷。
 いずれにせよ、ファンにはお薦めの一冊。