不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

新日本フィルハーモニー交響楽団

  1. ハイドン交響曲第98番
  2. ショスタコーヴィチ交響曲第10番

指揮:小澤征爾

 先月アルミンクで聴いたが、今日はもうこれが同じオケかと思うほど充実したサウンド。オーケストラの鳴りって、本当に指揮者によるんだなと痛感。小澤征爾オーストリア出身の若造とは格が違います。クラヲタには小澤征爾は批判されがちだし、その理由も首肯し得る場合がままあるのだが、実演でその実力を目の当たりにすると、やはり素晴らしい指揮者だと思いますよ。
 しかし同時に、日本人がクラシック音楽をやるということについて、深く考えさせられた。
 日本のオーケストラは、海外オケに比べて自発性が少ない。《楽しそうに弾いてるなあ!》と言いたくなる音を滅多に立てない。指揮者の指示にはもちろん従うのだが、大乗り気ではないため、微妙なニュアンスや心の襞に至る繊細な表現がなかなかできない。先のデュトワ指揮N響の公演でもそう。デュトワはオケを締め上げるタイプだが、最後の最後まで自分で指示を出したりはしない。「ここから先はオーケストラがニュアンスを出すべき所」というのを作っている。どのような演奏を志向すべきかは当然リハーサルでは具体的かつ詳細に言うのだろうし、それに基づいて指揮棒を振りはする。だが《ペトルーシュカ》において、ソロに任せて指揮棒を降ろしてしまうシーンに象徴されるように、演奏会当日であってもその全てをアクションをもって指示しなければ気が済まない人ではない。そして、そのデュトワの期待に、NHK交響楽団は十全に応えることができたのか? 私は応えていなかったと思う。デュトワはご満悦だったが、私は、あの演奏にはまだ先があり得たと思う。
 で、小澤と新日本フィルである。小澤征爾は、齋藤秀雄に叩き込まれた結果、ウィーン・フィルを振ってさえフレーズの隅々まで振り抜こうとする指揮者である。これは絶対に手を抜かないと評判の彼の名声を支えているが、一方で、海外オケ相手だと、オケの自主性を殺してしまう。しかし新日本フィルではどうなのか? 歯車はがっちりかみ合う。というか、そもそも自主的なプレイに走らないのだから、新日本フィル小澤征爾の音楽を映し出す鏡、指揮者の楽器となるのだ。全てを指示する指揮者にとって、日本のオケは、まさに理想なのかもしれない。
 ハイドンは特に興味深かった。ドレスデン・シュターツカペレやベルリン・フィルが(スタイルは違えど)嬉々として弾いたこの作曲家が、真面目に、ひたむきに奏でられていた。そこには愉悦がないが、自然と頭の下がるような真摯さがある。もちろん、どちらが《正しい》のかと問われれば、ドレスデンやベルリンだと答えざるを得ない。しかし小澤指揮の新日本フィルは、まったく別の《美学》に依拠した演奏をやったのだと思う。
 小澤征爾は、ことある毎に、自分は日本人だ、自分はモルモットだと口にする。その重みが何となくわかったような気がする。新日本フィルとでさえかほど素晴らしい演奏ができる指揮者だとわかった今、私は、小澤征爾をサイトウキネンやウィーン・フィルで猛烈に聴いてみたい。

 ……なんだか今日はうまく言えませんな。感動はないけれど、何だか凄く素晴らしい演奏会だったのだ。木管金管ショスタコーヴィチの後半でヘタっていたのが残念だった。