不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 演目は、リンドベルイ:《AURA》、ドビュッシー:海、ラヴェル:《ダフニスとクロエ》第二組曲。アンコールは、同じくラヴェル:《マ・メール・ロワ》より《妖精の園》。指揮はサー・サイモン・ラトル

 色々考えさせられる演奏会であった。

 オーケストラの音がとにかく輝かしい! 《燦然》という言葉が比喩ではなく当てはまりそうなのだ。いやあ凄いオーケストラもあったものです(ええ、私、偉そうなこと言ってますが、ベルリン・フィルは初めてでした)。クラシック音楽好きなら、一度は聴いておかないと嘘ですな。
 しかしながら、感動したか、満足したかというと、ちょっと違うのである。この《燦然》というのが曲者で、圧倒的な光の奔流が、作品から闇の眷属を全て追い出してしまうのである。ある種暴力的な光の裁きとも言えそうだ。具体的にはドビュッシーの《海》。この曲って、グラデーションの濃淡によって海原を描く標題音楽のはずで、衰滅と生成のなだらかなつながり、そこから醸される微妙な余情が重要な要素を占める。ところが、ラトル+ベルリン・フィルは、それを全て薙ぎ払い、眩光で全てを曝け出してしまう。ここで演奏されている音楽の表題は、《海》ではなく《光》なのではないかとさえ思われるのだった。
 しかしでは駄目かというとそうではない。そんなことはあり得ない。だってこれ凄いよ? 相手はドビュッシーですぜ? どうやったらこんなことが実現できるんですか? もちろん、描き得なかったニュアンスはある。もう少し余裕を保った演奏で、所謂《エスプリ》とやらで馨しく魅せて欲しい。しかしそんな希望は、私という浅学非才なキモヲタが後生大事に抱え込む夢と理想に過ぎないわけで、世の中で最もくだらないものの一つだ。そんなものは豚に食わせるべきなのである。今はただ、この輝かしい指揮者とオーケストラの至芸に目を射られるべきなのである。
 リンドベルイとラヴェルについては、ドビュッシーほど曲の本質と演奏のベクトルが食い違わない。特に後者。バッカナール最強だったし、静かな部分も朝日が昇る音楽とかだもんね。前者については、もう少し暗い表情があっても良かったかもしれんが、まあ問題ってほどじゃないはずだ。現代音楽の大作を堪能しますた。
 というわけで、土曜日のドイツドイツしたプログラムにも、怖いもの見たさ的な期待が高まるのである。