不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

まだ殺してやらない/蒼井上鷹

まだ殺してやらない (講談社ノベルス ア AF-01)

まだ殺してやらない (講談社ノベルス ア AF-01)

 妻を殺された作家の瀧野和一は、自力調査に踏み出す。だがやがて警察は連続殺人犯の《カツミ》を逮捕する。どうやら妻は《カツミ》に殺されたようだ――そして和一の戦いの日々も終わったと思われた。だが瀧野の元には、犯人を名乗る人物からメッセージが届く。果たして妻を殺したのは《カツミ》なのか、それとも他の誰かなのか? そしてメッセージの目的は?!
 扱われる事件は、世間で騒がれている連続殺人である。もちろんかなり派手な犯罪であり、小市民的な犯罪を多く扱ってきた蒼井上鷹のイメージには一見そぐわない。しかし要所で見られる登場人物の言動や内面吐露がかなり卑近であり、《上鷹印》とでも称すべき特徴は本書にもよく表れている。
 本書ならではの特徴は、局面がかなりくるくると変転するということだろう。登場人物のイメージも各所でラディカルに転換され、逆転やツイストが多発し、一種のコン・ゲームの要素すら呈し始めるのだ。しかし本書ではこれがうまく機能しているとは言いがたい。
 問題は蒼井上鷹の登場人物描写手法にある。小市民的で卑近で俗っぽい登場人物は、客体視する分には面白いが、感情移入には向かない。一方『まだ殺してやらない』のようなプロットを有する小説――つまり、ラストでもないのにドンデン返しが連発される小説は、登場人物への感情移入があってこそ読者の「驚き」が最大化する。ところが蒼井上鷹は本書でも、登場人物を魅力的には全く描かない。……魅力的に(または普通に)描こうとした形跡は見受けられるので、こう言い換えておこう。彼は、登場人物を魅力的に見せる手法にまだ熟達していない。あるいは筆に瑞々しさが足りないとでも言おうか。そして、登場人物の《魅力》を垂直立ち上げすることに失敗したために、続く中盤以降が冗長になってしまったのである。魅力的なイメージが崩れて行くのであれば、イヤミス好きには嬉しいカタルシスとなろう。しかし最初から魅力的でも何でもない、それは単にしつこいだけなのだ。
 サプライズ要素を際立たせようと、実に様々に考えられた作品ではある。伏線もしっかりしたものだ。だから余計に残念である。

2061年宇宙の旅/アーサー・C・クラーク

2061年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)

2061年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)

 100歳を超えてなお矍鑠としているフロイド博士は、ハレー彗星への着陸計画に同行する。一方、博士の孫のクリスは木星軌道にいたが、宇宙船がハイジャックされた結果、モノリスによって人類の接近が厳禁されている衛星エウロパに不時着してしまった。フロイド博士は孫たちを救助すべく、エウロパに向かうが……。
 1987年に発表された小説である。前年の1986年はハレー彗星再接近の年だ。そして次回のハレー彗星再接近は2061年であると予想されている。つまり本書はこれに合わせたか、触発されて書かれたのである。SF小説アポロ計画需要は有名だが、ハレー彗星にもそんなことがあったんですなあ。
 内容の方であるが、モノリスの神秘性は後退し、代わりにハレー彗星エウロパ、そして恒星と化した木星(名称はルシファーに代わっている)が思う存分語られている。『2001年』や『2010年』、ついでに先取りして言ってしまうが『3001年』も、舞台は宇宙だったがテーマの中心は一種の文明論・知性論であった。だが『2061年』の主役は間違いなく星々である。太陽系内限定とはいえ、当時の研究成果を取り入れた天体のリアルな描写には迫力があるし、そこに現実にはないルシファーを交えることで、センス・オブ・ワンダーをも満足させる。ここら辺はクラークの独壇場ともいえよう。
 といってもモノリス大明神が何もしないわけはなく、人類が知的好奇心を露わにしないわけもない。総合的には天体巡りの要素が強過ぎるものの、本書もまた《スペース・オデッセイ》の一角を占める一冊であることは間違いのである。