不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

氷/アンナ・カヴァン

 不思議に光る氷が四方に迫り、戦争により終末が近い世界において、昔愛した少女を執拗に追う《私》……。
 幻想的な情景が連発する長編で、夢オチの章も頻出するが、それを除いた部分だけでも、展開が極めてわけわからん。だが、少女を求め、しかしいざ会うと諍いになる《私》の想いが、直接間接問わず、読者の胸を締め付けてくる。色濃く漂う終末感、《氷》象徴的であるように、物語の質感はあくまで冷たく硬質なのも素晴らしい。男性によるストーカー小説と読めなくもないが、何せ作家が女性なので、思わず色々考え込んでしまう。
 作品の整理整頓ぶり(と言うか幻想的シークエンスの少なさ)では『愛の渇き』、各情景の先鋭度では『ジュリアとバズーカ』の方が上のような気もするが、『氷』もなかなか素晴らしい作品で、アンナ・カヴァンがどのような作家を知ることはできるだろう。だいいち、世評では『氷』がカヴァンの最高傑作ということなので、私の読解力が追い付いていないだけという可能性が最も高い。バジリコからの復刊計画が動き出している模様なので、そちらで読まれてみてはいかがだろう。

レベル3/ジャック・フィニイ

レベル3 (異色作家短篇集)

レベル3 (異色作家短篇集)

 寡聞にして、ジャック・フィニイほど、懐旧に傾斜する作家を他に知らない。たとえば、大傑作『ふりだしに戻る』は、極上のおセンチ大爆発であった。懐かしむのは自身の思い出どころではない。主人公は現代社会を嫌悪し、自分が生まれる前のニューヨークへの憧れを高揚させ、その想いによってタイムスリップする話だった。ここでポイントなのは、懐旧の情が、単純な憧憬ではなく、現代への嫌悪・倦怠に裏打ちされている点である。それは本質的に、より素晴らしき生の謳歌への前進ではなく、後ろ向きの逃避である。しかしだからこそ、しばしば狂おしいほどに懐かしく、また切ない情感を運ぶのである。
 短編集『レベル3』にも、そのような短編が多数収められている。駅のあり得ない階に昔の駅を発見する「レベル3」、よく考えると同種の行動を違った二つの短編として作品化した「おかしな隣人」と「こわい」、事象が時間に関係しないだけで実は同種の逃避である「失踪人名簿」、逃避するのは登場人物ではなく作家自身(とはいえ、個人レベルの憧憬による逃避ではない)という「世界最初のパイロット」辺りがそれに該当する。
 しかし、フィニイは単にそれだけの作家ではない。もちろん。
 時間軸絡みの話で懐旧に彩られつつ落着点がいつもと微妙に異なる「第二のチャンス」は、それでもまだなお懐旧話である。しかし、幽霊譚である「潮時」、克己辛苦して作成したメモが風に飛ばされて大変なことになる「死人のポケットの中には」辺りには、後ろ向き気味・回顧気味ではあるが、人生への皮肉と優しい視線が感じられる。そして「雲のなかにいるもの」と「青春を少々」は、若い男女の出会いの物語で、ユーモアと甘さが素晴らしい。特に後者のラストでの作者の言葉は、胸に深々と突き刺さった。現実の人生を小説の中に持って行くんですかそうですか。
 アイデアと雰囲気を両立させる腕は確かな作家。寡作なのもむべなるかな。というわけで、お薦めです。