不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

ジョナサン・ノット/バンベルク交響楽団 シューベルト:交響曲第8番ハ長調《グレイト》

 2006年9月19日〜22日、バンベルクのコンツェルトホール(ヨゼフ・カイルベルト・ザール)でのセッション録音。東京交響楽団音楽監督に就いているノットが、もう一つの手兵、バンベルク交響楽団と組んで録音した交響曲全集の一環で録音されています。
 いきなり《グレイト》から聴かず、他の曲から聴き始めたんですが、至極オーソドックスな演奏に見えつつも、何か非常に強い特徴があるように思われて、それが何か悩みながら聴いておりました。そして交響曲第2番を聴いている時に、その正体がわかったのです。それは、拍節感の希薄さカール・ベーム辺りだと滅茶苦茶はっきりしてますが、ほとんどの指揮者は、シューベルト以前の交響曲を振る際には、多かれ少なかれ拍節感が(シューベルトよりも後の交響曲に比べて)強めに出ます。一つ一つの音符を個人にたとえるなら、小節は家族、そしてその家族が集合して入り組んで、一つの社会=楽曲を作り上げる、というイメージ。ところがノットには、小節の存在感がなく、それぞれの音符がダイレクトに楽曲の構造に繋がっているように聞こえる。あるいは、それぞれの音符が小節とは無関係に作り上げるモチーフが、楽曲構造に繋がる。これはそういう演奏です。面白いのは、特徴的なのはここだけで、後はテンポ設定、リズムの取り方、細部の表情付け、オーケストラ全体のバランス調整など、全てが常識的かつオーソドックスな手堅いものになっていることである。
 以上が私の妄想である可能性は十二分に認めますが、何度か聞いてもそう聞こえるんだから仕方がない。
 で、そんなノットが《グレイト》を振るとどうなるか。この曲は交響曲第1〜6番ほどシンプルな曲ではないので、以上の特色がそれほど目立ちません。しかしやっていることは基本的に一緒で、他の全てが常識的な範疇にとどまりつつも、拍節感の不在がとても自由な雰囲気を音楽にもたらしています。引き締まった音楽作りで、拍節感を消す以外に特殊なことは何もしていないけれど、その唯一の特殊なことが、演奏に強い個性を与えていると思います。しっかりきっちり真面目に楽譜を読み込んでいる風情もあって、好感度が高いのも印象を更に良くしています。これはなかなか良い演奏だと思います。
 さてこの交響曲全集は、私が所有しているバージョン(リンク先のは違います)だと、シューベルト交響曲8曲(《未完成》は第三楽章も10秒だけ演奏されてます!)に加えて、シューベルトにちなんだ現代音楽アルバムを2枚含みます。その2枚に収録された曲目は、以下の通り。《レンダリング》以外は相当マニアックだと思うんですが、いかがなものでしょうか。

 どの作品も、シューベルトの音楽(やその断片)を自分の音楽と融合させています。それがコラボなのか合体なのか、はたまた編曲なのか、モチーフとして引用しているだけなのか、或いは単なるオーケストレイションなのか、程度は様々です。ただ一つ言えることは、メロディーがない故敬遠されることの多い現代音楽が、ここではシューベルトによって誰でもメロディーとして認識できるものを提供されており、ゆえに一層、シューベルトの時代と現代の違いがはっきりしているということです。シューベルトが身罷って200年近く、音楽はその発想方法含めて本当に変わりました。そのことを実感させるとともに、時を越えてシューベルトの旋律はなお美しいことがわかります。面白いのは、どの作曲家も、シューベルトの旋律を明暗境を異にせずといった感じで、不思議な雰囲気を引き立てるものとして使用していることです。個人的には、《レンダリング》が名曲なのは当然として、30分近くの大曲であるヴィトマン《管弦楽のための歌》、シューベルト原曲そのままの声楽と現代的なオーケストレイションの対比が面白いツェンダー《シューベルトの合唱曲》、完全にホラー映画なヘンツェ《魔王》、クラリネットの音色が官能的なマントヴァーニ《表情豊かに》が特に気に入りました。演奏も気合が入ったもので、ノットの「基本ストレートだけど拍節感は薄い」芸風が現代音楽に大変にマッチしております。