不壊の槍は折られましたが、何か?

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セルジウ・チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 シューベルト:交響曲第9番ハ長調《グレイト》


 1994年2月28日、ミュンヘンのガスタイクにおけるライブ録音。例によって死後に発売された音源である。
 チェリビダッケの晩年様式の常として、どの楽章もテンポはかなり遅い。全体の楽曲構造から俯瞰した壮大な図面をベースにしつつ、細部をも舐め回すように表現しようという非常に欲張りな芸風である。どんな楽器のどのシーン、どのニュアンスにも、指揮者の注意と指示が行き届いているように聞こえる。特筆すべきはニュアンスの細かさで、木管のソロでは耳が釘付けとなる。楽しさも寂しさもちゃんと伝わってくるのだ。ハーモニーの縒り合せそれ自体も魅力たっぷり。こういう拘りの一方で、マスとしての雄大ランドスケープも聴き手の前に広がり、そのスケールには圧倒される。全体と部分を両立した、音による素晴らしい巨大構造物であり、《グレイト》という楽曲の、あらゆる要素を最大余さず示し尽した演奏となっている。極端なほど繊細だが、同時にとことん気宇壮大である。会場のガスタイクがでか過ぎるのか、録音ではサウンドが虚空に消えていく風情となっており、その印象を一層強めている。フィナーレ最後の一音がディミヌエンドなのも、無常観に溢れた後味を残す。一番素晴らしいのは第二楽章と、第三楽章のトリオ。木管から匂い立つ孤独感や寂寥感が広がって、個人的には、諦念と共に俯きつつ一人そぞろ歩くような妄想が喚起されてしまう。要は、俺はたまらないほど好きってことです。
 というわけで素晴らしいんだけれど、その非常に遅いテンポゆえ、運動性だけは犠牲になっている。もちろん運動性が皆無というわけではなくて、意外ときつめのアクセントによって躍動感がそこそこ維持されてはいるのだ。よって私自身は全く気にならないのだが、人によってはこの遅さに付き合いきれないかも知れない。その点については、まあしょうがないです。個人的に一番面白かったのは、第三楽章である。しばしばフレーズを終わりで弱くするチェリビダッケの得意技が決まっていて、このスケルツォが本質的に舞曲であることを再認識させられた。なお指揮者の個性は強いけれど、クナッパーツブッシュほどは《グレイト》のイメージから脱却していない。ここら辺のバランス感覚は、やはりチェリビダッケの方が感性が近代的ということになるのだろうか。