不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

クリーヴランド管弦楽団来日公演(東京2日目)

19時〜 サントリーホール

  1. モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K136
  2. モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
  3. モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595

 私にとって、クリーヴランド管弦楽団は今回が初体験となる。これまた木質系の実に良い音を出すオーケストラで、弦も管も素晴らしい。いずれの日程も、最初の弦だけによるディヴェルティメント(チェロ以外は立って演奏)から、調和の取れた良いハーモニーを聴かせてくれた。指揮者がいないこともあろうが、若干アインザッツが不揃いだったし、解釈的にも基本的に穏当だったが、聴いているだけで幸せになってくるような、勘所を押さえた演奏で大いに楽しめた。視覚的には、コンマスがかなり大きな身振りでヴァイオリン・セクションに合図をしていたのが印象的であった。
 その素晴らしい前菜の後に、両日とも、見事な協奏曲をそれぞれ二曲たっぷりと堪能させてくれた。短調の曲はもちろん、長調のナンバーでも陰翳が強く、また終始沈み込むかのような表情付けがなされており、軽快に弾き飛ばされるところは皆無。しかしタッチは麗しく、音楽の進行は滑らかであり、柔和な美に彩られていた。クリーヴランド管弦楽団の伴奏も素晴らしく、内田光子のピアノに寄り添うように――そして彼女の出す素晴らしい音色に似つかわしく――きめ細かく、そして柔らかいサウンドを最初から最後まで維持していた。もっと強力な音を出すことも、小編成ながらこのオケなら可能だったはずである。しかし内田光子は明らかに意識的に柔和な音を要求しており、劇的表現が可能な短調の協奏曲でも、宙を舞う羽根のような音で貫徹。なお初日の第23番第二楽章とフィナーレ、および第24番第一楽章では、クラリネットに若干のトラブルが出たようで、終始耳障りな息漏れを聞かせていたが、まあこれは座った席の関係もあろうし、演奏全体に悪影響も及ぼしていなかったから良しとしたい。
 内田光子を聴き終わると、いつも身が引き締まる。彼女の演奏は独自の解釈に基づくが、「変な」演奏では全くない。テンポをあまり揺らさず、鬼面人を驚かせるような特異点(いわゆる「ギョッとする」瞬間ですね*2)も設けず、ただただひたむきに旋律が奏でられ、それは常に美しい音色に彩られている。では何がどう独自かというと、とにかくスコアの読みが入念なのである。丹精込めて弾かれているというのがまざまざと実感できる演奏で、流されるところが皆無。集中力には凄いものがあり、聴き手も緊張を強いられるが、過度というわけではない。ここら辺のバランスが絶妙なのだ。加えて、ピリオド楽派の考証などはおこなわれていない。あくまでも、彼女は楽譜しか相手にしておらず、そこから圧倒的な説得力を有する音楽を引き出しているのである。特に最後のピアノ協奏曲は格別。本当に格別であった! モーツァルトは明るい曲想であっても哀しみを感じさせることのできる数少ない作曲家の一人で、この点で比肩し得るのは恐らくフランツ・シューベルトただ一人だが、シューベルトが即座に鬱と死に傾斜するのに対し、モーツァルトは「それでもなお生/世界は続く」と、一周回ってある程度前向きな感慨を抱かせるようになっていると思う。そのことを、内田光子クリーヴランド管弦楽団は、私の生涯の中でも一、二を争うほどはっきりと、そしてたっぷりと示してくれたように思う。ポツポツとかぼそく奏でられたK595の第二楽章を、私は一生忘れないだろう。素晴らしい、本当に素晴らしい演奏会であった。
 ポイントは、その演奏が「天賦の才」の閃きに寄りかかっていないことだ。彼女はあくまでも勤勉に楽譜を読み込み、真面目にピアノを奏で、(本日は)オーケストラと真剣に向き合って、この音楽を作っている。美麗でふくよかで、たっぷりとした音楽。だがその佇まいにもかかわらず、我々の骨の髄に――普通の心地よい演奏であれば、ここまでは来ないという深度まで――染み渡ってくる。まことに独特な芸風であり、それは明らかに、1948年生まれの彼女が既に半世紀を超えてじっくりしっかり、そしてひたむきにおこなってきた各種の修練に裏打ちされているのだ。誤解して欲しくないが、努力の跡が残るわけでは決してない。しかし恐らく内田光子は、常人が到達できる音楽としては最高の高み或いは深淵にいる。そこに到達できた時点で既に常人ではない、という深刻な矛盾すら生じせしめる。凄い音楽家である。
 年齢的にはそろそろ指が回らなくなって来てもおかしくないので、聴けるうちに皆さん聴いておきましょう。

*1:協奏曲のみ。

*2:念のため断っておきますが、ギョッとするのが悪いと言ってるわけではない。